親鸞さまの胸キュン指南

親鸞聖人が明らかにされた驚きの真実がここにあります。

私ってどんな人?

浄土真宗で知られる親鸞聖人は、『阿弥陀仏の本願』一つを教えていかれた方です。


阿弥陀仏の本願とは何かと言いますと、
阿弥陀仏とは、この大宇宙にたくさんの仏様がいらっしゃるのですが、その本師本仏、先生の仏様です。

本願とは、誓願とも言われ、お約束のことです。

仏様方の先生である阿弥陀仏は、
すべての人を変わらない幸せにするというお約束をされました。

 

それを親鸞聖人は大きな船に例えられ、大悲の願船と言われています。

すべての仏には、慈悲がありますが、阿弥陀仏の慈悲はそれとは比べものにならない程、大きな慈悲なので、
その大慈悲心によってつくられた船ということで、大悲の願船と言われます。

私たちのこの人生は何のためにあるのかというと、現在ただ今命ある間に
この大船に乗せて頂くための人生です。

その大悲の願船には、どうすれば乗せて頂けるのかというと、聞く一つと言われています。


聞く一つとはどういうことか、何をどのように、何回聞くのか、どこまで聞くのかということを、
親鸞聖人はこのように教えられています。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
 これを「聞」と曰うなり。(教行信証

と言われています。

 

衆生とは、私たちのことです。
仏願とは、阿弥陀仏の本願の、仏と願をとって仏願と言われています。
生起とは、生まれ起こされた、ということで、
本末とは、本から末にかけて、ということです。
有ること無しというのは、有ることが無いということで、金輪際ない、二度とないということです。


このことを親鸞聖人は、教行信証の冒頭に、

 誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

とおっしゃっています。


摂取不捨の真言も、超世希有の正法も、阿弥陀仏の本願のことですから、
阿弥陀仏の本願、本当だった、本当だったと言われているのです。

生起本末というのは、
どんな人のために本願を建てられたのか、
そのために阿弥陀仏はどうなされたか、
その結果、どうなったのか
ということです。

 

その、どんな人のために本願を建てられたのかというと、
親鸞聖人は、私たちすべての人のことを煩悩具足の凡夫と言われています。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、108あると言われます。
具足というのは、それでできている、かたまり、100パーセントということで、
凡夫とは、人間のことなので、
煩悩具足の凡夫とは、煩悩100パーセントの人間ということです。

 


煩悩とは?


108ある煩悩の中でも、代表的な三つのものを三毒の煩悩と言います。
それは、欲、怒り、愚痴の三つです。

とは、無ければ欲しい、有ればあったでもっと欲しいと際限なく欲しいと思う心です。
ですから、縁さえ来れば、その欲のために何でもします。
その欲が邪魔されると起きてくるのが、怒りの心です。
怒りは、すべてを焼き付くしてしまいます。
カーッとなった時は我を忘れていますが、正気に戻るとすべてを失っていることに気づきます。
そして、腹を立ててもどうにもならない相手には、ねたみそねみの愚痴の心が起きてきます。
親鸞聖人は、その愚痴の嫌な心をご和讃に

 心は蛇蝎のごとくなり

と言われています。


蛇や蝎を見たときのようなゾッとする心だと教えられているのです。

 

このような心でをつくってばかりのものが私たち人間ですから、
その罪悪をしっかり見ていきましょうと言われます。

しかし、自分のことはなかなか悪く見ることができません。
ですから、仏教を聞いて、私たちはこういうものだと教えて頂くことで知らされていくのです。

そして、私たちの本当のすがたがハッキリと知らされた時が救われた時です。
そこまで仏法を聞かせて頂きましょうと親鸞聖人は教えられているのです。

 

 

何のために生きてるの?

 

誰でもつらく悲しいことがあった時、

ふと「何のために生きてるのかな」

「こんな人生に何の意味があるんだろう」と

考えることがあると思います。

人間のすべての営みは、幸せになるためのものなのに、

苦しいことが続くと、今生きていることや、人間に生まれてきたことに

喜びを感じることはできませんよね。

 

実は、浄土真宗で有名な親鸞聖人のご和讃に、

なんのために生きるのか」の答えがあるんです。

 

 利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆえに
 教と仏語にしたがえば
 外の雑縁さらになし

 

「利他」とは、阿弥陀仏という仏様から賜ったもの、ということで、

信楽」とは、変わらない幸せのことです。

「利他の信楽」とは、阿弥陀仏から賜った絶対変わらない幸せのことです。

次の「願に相応するゆえに」の「願」とは、

阿弥陀仏がお約束されたことで、これを阿弥陀仏の本願と言いますが、

この本願のことを「願」と言われています。

阿弥陀仏の本願を分かりやすく言うと、

「すべての人を絶対に変わらない幸せにしてみせる」

というお約束です。

次の「教と仏語にしたがえば」の「教」とは、ブッダの教えのことで、

「仏語」とは、大宇宙の数え切れない程の仏様のお言葉のことです。

最後の「外の雑縁さらになし」とは、すべてのことが

さわりでなくなるということで、変わらない幸せの世界のことです。

 

何のために生きているのか、というと、絶対に変わらない幸せの身になって、

「人間に生まれてよかった!」という生命の歓喜を得ることなんですね。

その変わらない幸せを得る方法も親鸞聖人が明らかにされています。

 


本当の生きる目的がわかるビデオ(人生は意味なく生きて死ぬだけ?)

 

 

 

本当の幸せになれるただ一つの道

浄土真宗といえば親鸞聖人ですが、そもそも浄土真宗というのは

どういうことかと言うと、

浄土真宗の「浄土」というのは浄土往生のことです。往生とは死んで仏に生まれることを言います。

次に、浄土真宗の「真」はただ一つということです。

そして、「宗」は教えのことで、道とも言いますから、浄土真宗というのは、

極楽浄土に往生できるただ一つの道」ということです。

 

親鸞聖人のみ教えは、阿弥陀仏という仏様の本願(お約束)一つですから

極楽浄土に往生できるただ一つの道は、阿弥陀仏の本願ということになります。

では、阿弥陀仏の本願とは何かと言うと、本願は誓願ともお約束とも

言われます。

現代の言葉で分かりやすく言うと、

「どんな人も必ず助ける絶対の幸福の幸福に」というお約束です。

つまり、すべての人を変わらない幸せにしてみせると誓っておられるのです。

 

ですが、私たちの知っている幸せは、やがて色あせたり崩れていくものばかり。

ずっと変わらず幸せ、なんてことは考えられません。

例えば、就職が決まった時は、ようやく行き先が決まったということで、

安心できたと思いますし、嬉しかったと思います。

何回も面接を受けてなかなか決まらなかった場合は特に、

喜びも倍増するのではないでしょうか。

でも、しばらく経つと、そんな喜びも安心感も薄れていきます。

だんだん慣れてくると、毎日のストレスやマンネリ化によって

つまらなくさえ感じてきます。

私たちは同じ状態をいつまでも幸せだと感じることはできません。

つらいことがあって、幸せ感がマイナスになったり、

もっと幸せそうな人を見ると惨めになったり。

さっきまで幸せだったのに、その数分後には落ち込んでいる、

というように心は変わり通しです。

私たちがどれだけ頑張っても、永遠に幸せな状態になることはなさそうですよね。

それを阿弥陀仏は、永遠の幸せにしてみせる、と言われるのですから、

本当に有り難いことです。

 

親鸞聖人は、ご自身が阿弥陀仏に救われた時の喜びを、主著『教行信証』に

このように書かれています。

 誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
 聞思して遅慮することなかれ

摂取不捨の真言も超世希有の正法も、阿弥陀仏の本願のことですから、

これは、「阿弥陀仏の本願は本当だった」ということです。

次の、「聞思して遅慮することなかれ」というのは、

聴聞一つで救われるのだから、モタモタするな」ということです。

阿弥陀仏の救いにあうためには聴聞しなさい、と言われているのです。

それが、本当の幸せになれるただ一つの道なのです。

何を聞くのかということについては、親鸞聖人が教えてくださっています。

 

変わらない信心

 

信心というと、自分の心で何かを信じるということだと思いますが、

信心にも色々あります。

信じるものは人によって違いますが、何かを信じなければ人は生きていけません。

身近なことで言えば、自分の命や健康な身体、お金や財産、家族を信じている人は

多いと思います。

でも、このようなものは、時間が経ったり、状況によって変わってしまいますよね。

自分の心もコロコロ変わってしまうので、その心で信じるって本当に難しいことだと

思います。

親鸞聖人は、阿弥陀如来からいただく信心は決して変わらないのだと言われています。

親鸞聖人が尊敬されている高僧方の教えを紹介されたご和讃を

高僧和讃と言いますが、その中の一首に

 真心徹到する人は  金剛心なりければ
 三品の懺悔する人と ひとしと宗師はのたまえり

とあります。

この金剛心というのが変わらないということです。

どのくらい変わらないかと言うと、その例えとして

四通りの人を示されて、「あなたの信心は間違っている」とどんな人に言われても

決して変わらないと教えられています。

これを四重の破人と言います。

まず一つ目は、智者や学者ということで、仏教の専門家です。

次に二つ目は、41段以下のさとりを開いた聖者と言われる人です。

三つ目は、41段以上50段以下のさとりを開いた菩薩です。

さとりは全部で52段あり、1段違っても人間と虫けらほど違うと言われますから

相当高いさとりを開いた人のことです。

最後の四つ目は、仏です。

こんな凄い方々に、ましてや仏様に言われてしまったら、揺らいでしまいそうですが、

それでも変わりません。

それほどハッキリした確かな信心なのです。

絶対に変わらない信じられるものがあると、今の生活が激変すること間違いなしです。

 


何を信じれば幸せになれるの?信じて幸せになれるもの、なれないもの

 

求めれば必ず辿りつける世界

 

先日、図書館に行った時、土曜日にも関わらず、

高校生がたくさん居ました。

来月には大学のセンター試験があるからでしょうか。

大学受験が終われば、就活のための勉強が始まり、

社会人になれば、資格試験や仕事の関係の勉強があり、

どれだけやっても、勉強には終わりがありません。

 

“死ぬまで求道”という言葉がありますが

求めているものが求まらない状態は苦しみでしかありませんよね。

求めるのは不満があるからで、求まったという時に

初めて喜べるのだと思います。

仕事やプライベートで、色々と目標を立てて、それに向かって努力すると

その目標を達成できることがありますが、喜びは続きません。

だからこそ、また別の目標を立てて、別のものを求めようとします。

これは求めるものが変わるだけで、同じことを繰り返しているだけなので

ずっと不満な感じはなくならず、その時その時を生きているだけの人生と

なってしまいます。

こんなことを続けていると、何となく虚しくなってきませんか?

 

親鸞聖人が教えられた信心には完成があります。

求めていたものが求まったということがあるのです。

親鸞聖人が尊敬されている高僧方の教えを紹介されたご和讃を

高僧和讃と言いますが、その中の一首に

 真心徹到する人は  金剛心なりければ
 三品の懺悔する人と ひとしと宗師はのたまえり

とあります。

真心とは真実の信心ということで、この信心の特徴として

徹到と言われ、完成があるということです。

仏教に説かれる信心には必ず完成があるのです。

 

 

信じるということ

 

どんな人でも必ず何かを信じて生きています。

「自分は他人を信じられないし、特定の宗教も信じていません」

という人でも、自分の命を信じて生きていますので

本当に何も信じていないという人はありません。

 

よく◯◯信心って言葉を耳にしませんか?

信心にも色々あって、大きく分けると4つあります。

1つ目は“人や物を信じる”ということで、例えば、夫婦や親子、友達だったり、

お金のように自分の持っているものを信じることです。

2つ目は“神や仏を信じる”ということで、様や仏様、菩薩をあてにする

ということです。

3つ目と4つ目はちょっと種類が違います。

3つ目は“自力の信心”と言われるもので、自分の智慧や学問、才能や経験によって

作り上げる信心です。

4つ目は“他力の信心”と言われるもので、阿弥陀仏という仏様から賜る信心です。

阿弥陀仏から信心を賜るとはどういうことかというと、

阿弥陀仏がお約束されているとおりの世界に出させていただくということです。

このお約束は、「阿弥陀仏の本願」と言われ、親鸞聖人が生涯かけて

教えていかれたことは、この本願一つでした。

分かりやすく現代の言葉で言うと

どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」ということで

すべての人を絶対に変わらない幸せの身にしてみせる、というお約束です。

 

親鸞聖人は29歳の時に、変わらない幸せの身になられて

その喜びと本願がどのようなものかを正信偈に記されました。

正信偈の最後の方に「道俗時衆共同心」とありますが、

道は僧侶、俗は在家の人、時衆はその時集まった人ということで

これは、聖人が「すべての人よ、共にこの親鸞と同じ心になってください

と言われているお言葉です。

阿弥陀仏から他力の信心を頂いて、一日も早く本当の幸せに

なっていただきたいと願っておられるのです。

親鸞聖人が生涯かけて明らかにされたこの他力の信心の世界に

ぜひとも出させていただきたいですね。

 

 

死後は幸せな世界?

 

よく、温泉に行ってのんびりお湯に浸かっている時、

聞こえてくる〝極楽、極楽〟と言う言葉。

極楽は天国みたいなイメージで、この世のような嫌な出来事は一つもなく

毎日幸せいっぱいに過ごすことができる場所のように思っているからでしょうか。

 

極楽は仏様の世界なので、私たち人間とは無縁で、

生きている時に善いことをたくさんすれば、死んだ後、極楽に行けて、

悪いことをたくさんしていると地獄に堕ちる、というのは

誰に教えられたわけでもないけれど、何となく子どもの頃からそう信じて

いるんですよね。

 

そう考えると、死後の世界を善くするか悪くするかを決めるために、

現在があるみたいに思えてきます。

あくまでも幸せがやってくるのは死んだ後という感じもします。

でも実際は、人間として生まれてきたのにはちゃんと理由があって、

生きている目的と同じ、幸せになるためなんですよね。

 

親鸞聖人は、生きている今、変わらない幸せになれることを

平生業成(へいぜいごうじょう)』と教えられています。

平生とは生きている今、業とは人生の大事業ということで、

生きる目的のことです。

成は完成するということです。

 

朝晩のお勤めで拝読する、正信偈の冒頭にも

 帰命無量寿如来無量寿如来に帰命し)
 南無不可思議光(不可思議光に南無したてまつる)

と記されていますが、これは、親鸞聖人が変わらない幸せになられた

歓喜のお言葉です。

このお言葉の意味は、

親鸞無量寿如来に救われたぞ、不可思議光に親鸞助けられたぞ〟

ということです。

この、無量寿如来や不可思議光というのは、どちらも阿弥陀仏という仏様の別名です。

親鸞聖人の教えのとおりに進んでいくと、必ず生きている今、

変わらない幸せになれるのです。