本当の私とは?
「私とは一体何か?」
こう聞かれると、
「私は鈴木太郎だ」とか
体を指さして「私は私だ」と答える人もあるかもしれません。
ですが、手や足などの体、他にも車や家族など
自分の所有しているものや自分に関係のあるものは、
イコール私ではありません。
一時縁あって、私の手になり、足になり、
私の車になり、私の家族となったものなのです。
「私とは?」
自分のことは近すぎて見えませんし、分かりません。
その上、自分のことは欲目という色眼鏡で見ますので、
悪くは思えません。
一番大事な自分のことが分からないから、
私たちは迷い、苦しみの波が絶え間なくやって来る人生になるのです。
では、どうすれば自分では分からない自分のすがたを
知ることができるのでしょうか?
私たちは、自分の髪型や顔を見るときは鏡を見ます。
目、目を見ること能わず
と言われるように、自分の目で自分の目を見ることはできません。
鏡を使わないと、とても見ることはできないのです。
それと同じように、本当の自分のすがたは法鏡と言われる鏡によって
照らし出されます。
法鏡とは仏法のことです。
法とは、いつでもどこでも変わらないものを言います。
仏法を聞くことで、その法鏡に近づくことができます。
そして、こんな我が身であったのか、と自分のすがたが知らされるのです。
浄土真宗の親鸞聖人は、知らされた本当の自分のすがたを
悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎の如くなり
と言われています。
これは、悪いことだと分かっていても悪いことをする、
心の中には、ヘビやサソリを見たときのようなゾーッとする心がある
ということです。
気に入らない人がいれば悪口を言い、
自分の都合で平気で嘘をつき、
自分の思う通りにならないと怒りの心がこみ上げてきます。
そんな悪いっぱいの者が、仏法を聞いて、
「私ほどの悪人はいませんでした」と知らされた時、
変わらない本当の幸せになれるのです。