親鸞さまの胸キュン指南

親鸞聖人が明らかにされた驚きの真実がここにあります。

『歎異抄』に記された変わらない幸せ

歎異抄』は、仏教の本で1番よく読まれている本です。
美しい文章で読む人の心を魅了する『歎異抄』には、何が書かれているのかというと
浄土真宗の開祖、親鸞聖人の教えられたことが綴られています。


歎異抄の悪人正機の本当の意味とは?

 

歎異抄』は全18章で構成されていますが、その全18章は第1章におさまります。
そして、第1章は、その冒頭のお言葉におさまります。

歎異抄』の第1章の冒頭には

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

とあります。

さらに、この冒頭のお言葉は「摂取不捨の利益」におさまります。
ですから、『歎異抄』には「摂取不捨の利益」ということ1つを教えられているのです。

では、「摂取不捨の利益」とはどんなことなのでしょうか?

摂取というのは、おさめとる、ということです。
ただ単におさめとるということではなく、逃げ回っている者を追いかけて追いかけて
逃げ場のないところまで追いつめて、おさめとることをいいます。

たとえば、狭い池の中に泳いでいる鯉を見て、かわいそうに思った人が
広い湖に放してやろうと網で鯉をすくい上げようとします。
その時、鯉はおとなしく捕まるはずもなく、捕まえられて殺されては大変と
一生懸命逃げ回ります。

なぜこのようなことが起きるのかというと、鯉には人間の心は分からないからです。
もし分かっていれば、おとなしく網の中に入ります。
だから、鯉を捕まえようとすれば、鯉は逃げ回りますから、逃げ回っている鯉を
追いかけて逃げ場のないところまで追いつめて捕まえなければなりません。

次に不捨とは、捨てず、ということです。
ガチッとおさめとって絶対に捨てられないということです。

利益というのは、幸せのことです。
すべての人は幸せを求めて生きています。
ですが、幸せになりたいと願っていても、なかなか幸せにはなれません。
一時的に幸せだったとしても、無常の世界ですので続きません。
やがて崩れてしまいます。

信じていたものに裏切られた時、頼りにしていたものに捨てられた時、
私たちは苦しむことになるのです。
だから、どんなことがあっても崩れない幸せの身になりたいと
次こそ裏切らないものをと、信じられるものを求めて私たちは生きています。

そんな私たちが求めている、どんなことがあっても変わらない幸せにしてみせる
とお約束されているのが阿弥陀仏という仏様です。

さっきのたとえ話は何をたとえたものかというと、
逃げ回っている鯉は私たちのことです。
そして、逃がしてやろうとしている人は、阿弥陀仏です。

阿弥陀仏は、逃げ回っている私たちを何とか変わらない幸せに救ってやりたいと
手を尽くされているのです。

親鸞聖人は、この阿弥陀仏の救いを私たちに示されて、
早くこの変わらない幸せに救っていただきなさいと教えていかれたのです。

 


何を信じれば幸せになれるの?信じて幸せになれるもの、なれないもの

苦しみを乗り越えて生きよう

「苦しくてもなぜ生きねばならないのか」
「医療はなぜ1秒でも命を延ばそうとするのか」

これについて、親鸞聖人はこのように教えられています。
人生の目的を成し遂げるまでは自殺してはならない、
一生懸命生きねばならないのだと。

人は何のために生まれ、何のために生きているのか、
そして、何のために生きねばならないのか。
これらを教えられたのが親鸞聖人なのです。

 

人生の目的というと、生きがいのように思う人もあるかもしれません。
しかし、人生の目的と、生きがいは全く違います。
生きがいは、人によってまちまちで、それによって充実感があったり、
楽しかったり、存在意義を感じたりするものです。

例えば、スポーツやガーデニングなどの
趣味を生きがいにしている人もありますし、
子どもや孫を生きがいにしている人もあります。


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では、人生の目的は、というと
これは、たった一つしかないので、すべての人に共通しています。
そして、生きがいは続かない喜びや充実感であるのに対し、
人生の目的は、この人生の中で完成するということがあります。
この目的を達成したら、その心の満足感や喜びはずっと続いていきます。

 

その人生の目的について、親鸞聖人は

 生死の苦海ほとりなし
 久しく沈める我らをば
 弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せて必ず渡しける

と教えられています。

これはどういうことかと言いますと、
苦しみは色や形が変わるだけで変わらずある。
遠い過去からずっと苦しみの海に沈んできた私たちを
阿弥陀仏の大船だけが
乗せて極楽浄土まで渡してくだされるのだ。
ということです。

弥陀弘誓の船というのは、
すべての仏方の先生の仏様である、阿弥陀仏
すべての人を相手に建てられた誓願でできている船ということです。

阿弥陀仏
すべての人を変わらない幸せにしてみせると約束されています。

だから、この大船に乗せていただくことが
人生の目的なのだと教えられているのです。

 

苦しいことが続くと、どうしても生きる意味が感じられなくなってきます。
こんな人生、意味があるのかなと思うこともあります。
しかし、せっかく人間に生まれたのに、目的を果たす前に死んでしまっては
それこそ、これまでの苦しみがムダになってしまいます。
苦しみを乗り越えて、目的に向かって精一杯生きていきましょう。

 


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私たちの人生の意味とは?

今から800年前、親鸞聖人はすべての人が本当の幸せになれる道を
教えていかれました。

その教えについては、親鸞聖人ご自身も多くの著作に残されていますが、
唯円というお弟子が書いた親鸞聖人のお言葉をまとめたものを
歎異抄といいます。

その歎異抄の最初には、こう書かれています。

 「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
 と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、
 すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
                  (歎異抄第1章)

弥陀の誓願というのは、阿弥陀仏という仏様の誓願、お約束ということです。
阿弥陀仏は、すべての人を変わらない幸福にしてみせる、
というお約束をされています。

その阿弥陀仏という仏様は、大宇宙のすべての仏方の先生の仏様なので、
他の仏様と比べものにならないほどのお力をお持ちですから、
不思議と言われています。

往生とは、死んだ後、阿弥陀仏極楽浄土へ往って仏に生まれるということです。
阿弥陀仏の救いは、死んでからのものではありません。
阿弥陀仏のお約束には、死後のことがハッキリするお力がありますので、
生きている時に、往生できるとハッキリします。
生きている今、変わらない幸福の身にさせていただき、
死ねば極楽浄土へ往って仏に生まれることになるのです。

信じて、というのは、世間で使われる信じるとは違います。
往生できるとハッキリする、ということです。

摂取不捨の利益というのは、変わらない幸福のことです。
摂取とは、逃げ回っている者を追いかけて追いつめて、
ガシッとおさめ取ってくだされるということです。
永遠に変わらない、決して捨てられないということです。

ですから、この歎異抄第1章のこの部分は、
阿弥陀仏のお約束通りに助けていただいて、往生できると明らかになり、
念仏称えようと思い立ったその時、
永遠に変わらない幸福にしていただくのである
ということです。

私たちは、未来の明暗によって、現在の心が決まります。
命に関わる手術を1週間後に控えていれば、何をしていても
心は暗いままです。
それと同じように、私たちは死んだらどうなるかは分かりません。
分からないということは暗いということです。
しかも命はいつまで続くか分かりません。
だから何をやっても満たされず、何となく虚しい感じがするのです。

その暗い心を明るい心に変えてくだされるのが、阿弥陀仏のお約束のお力です。
私たちは、阿弥陀仏のお約束通りに変わらない幸福になることが
この人生の意味であり、私たちの生きる目的なのです。

 

 


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本当の私とは?

「私とは一体何か?」
こう聞かれると、

「私は鈴木太郎だ」とか
体を指さして「私は私だ」と答える人もあるかもしれません。

ですが、手や足などの体、他にも車や家族など
自分の所有しているものや自分に関係のあるものは、
イコール私ではありません。
一時縁あって、私の手になり、足になり、
私の車になり、私の家族となったものなのです。

 

「私とは?」
自分のことは近すぎて見えませんし、分かりません。
その上、自分のことは欲目という色眼鏡で見ますので、
悪くは思えません。

一番大事な自分のことが分からないから、
私たちは迷い、苦しみの波が絶え間なくやって来る人生になるのです。

では、どうすれば自分では分からない自分のすがたを
知ることができるのでしょうか?

 

私たちは、自分の髪型や顔を見るときは鏡を見ます。
 目、目を見ること能わず
と言われるように、自分の目で自分の目を見ることはできません。
鏡を使わないと、とても見ることはできないのです。

それと同じように、本当の自分のすがたは法鏡と言われる鏡によって
照らし出されます。
法鏡とは仏法のことです。
法とは、いつでもどこでも変わらないものを言います。
仏法を聞くことで、その法鏡に近づくことができます。
そして、こんな我が身であったのか、と自分のすがたが知らされるのです。

 

浄土真宗親鸞聖人は、知らされた本当の自分のすがたを

 悪性さらにやめがたし
 心は蛇蝎の如くなり

と言われています。

これは、悪いことだと分かっていても悪いことをする、
心の中には、ヘビやサソリを見たときのようなゾーッとする心がある
ということです。

気に入らない人がいれば悪口を言い、
自分の都合で平気でをつき、
自分の思う通りにならないと怒りの心がこみ上げてきます。

そんないっぱいの者が、仏法を聞いて、
「私ほどの悪人はいませんでした」と知らされた時、
変わらない本当の幸せになれるのです。

 


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正しい信心ってどんなもの?

 

信心」という言葉から連想するのは、
熱心で危ない雰囲気の漂う宗教団体かもしれません。

ですが、信心といっても色々あります。
や仏を信じるのも信心ですが、
それ以外のものでも、その人が心の支えとして信じていれば、
それがその人の信心です。

 

今から約800年前にお生まれになられた、浄土真宗親鸞聖人は、
正しい信心の特徴を教えていかれました。

こう言うと、信心が人それぞれなら、正しいも間違っているもないでしょ、
と思われるかもしれません。

ですが、正しい信心でないと、私たちは本当の幸せにはなれないのです。

私たちが信じているものは、
例えば、お金や財産、夫や妻、親や子ども等ですが、
これらは、ずっと変わらないものではありません。

お金の価値も変わりますし、
詐欺にあって大損するかもしれません。

家族もいつ事故に遭うか分からないし、
がんや脳梗塞といった病気になるかもしれません。

 

仏教で、諸行無常と教えられているとおり、
すべてのものは無常で、この世にずっと続くものはありません。
ですから、一時的に幸せだと感じても長くは続かないのです。

そして、信じていたものに裏切られた時、苦しんだり悲しんだりします。
続かないものを信じている限り、やがて必ず裏切られて
苦しむことになります。

それで、親鸞聖人は、絶対に裏切らない信心を教えられたのです。

 

その正しい信心はどんな人にいただけるのでしょうか?

 

正しい信心は蓮の花にたとえて教えられます。

その特徴は5つあるのですが、その1つ目が

淤泥不染(おでいふぜん)の徳

といいます。

淤泥というのは、泥田のことです。
誰でも、そんな汚らしい泥田に咲きたいとは思いません。
綺麗な場所に咲きたいと思います。

それは、
「自分は汚らしい場所に咲くようなお粗末な者ではない」
と思っているからです。

ですが、そんな綺麗な場所には蓮の花は咲かないのです。
蓮の花はドロドロの泥田に咲きます。

ですから、本当の自分というものを知らされた人、
自分はばかり造っている者だと知らされた人の心の中に咲きます。

 

本当の自分が知らされるには真実の教えを聞くしかありません。
真実の教えとは、いつでもどこでも変わらない真理のことです。
その大宇宙の真理に照らされてはじめて、本当の自分のすがたが見えてくるのです。
それ一つを生涯かけて教えていかれたのが親鸞聖人なのです。

 


何を信じれば幸せになれるの?信じて幸せになれるもの、なれないもの

決して崩れないもの

 

浄土真宗の開祖、親鸞聖人は、
4歳でお父様を亡くされ、8歳でお母様と死別されました。

そのことが縁となって、
自分も死んだらどうなるのかと悩み苦しまれ、
9歳で出家されました。

その後、比叡山で20年間、厳しい修行に励まれ、
何とかご自身の暗い心、死んだらどうなるのかの大問題を解決したいと
そのこと一つにすべてを懸けられたのです。

そして、真実の仏教に巡りあい、永遠に変わらない幸せの身になられました。
長い間、ずっと求めてきたものが、ようやく求まった時の喜びは
どれほどのものなのでしょうか?

 

それが、親鸞聖人の主著「教行信証」に書かれています。

 慶しきかな。
 心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
 深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。

 
弘誓というのは、阿弥陀仏という仏様の本願(お約束)のことです。
仏地というのは、阿弥陀仏の本願の大地ということです。
念というのは、心のことで、
難思というのは、不可称不可説不可思議ということです。
これは、言うことも説くことも想像もできないということです。
如来の矜哀というのは、阿弥陀如来大慈悲のことです。
師教というのは、阿弥陀如来大慈悲を正しく伝えてくだされた高僧方のことで
恩厚というのは、ご恩のことです。

ですから、このお言葉は、
親鸞阿弥陀仏の本願に救われたぞ、
決して崩れることのない、阿弥陀仏の本願の大地に心を樹て、
不可思議の世界に生かされたのだ。
阿弥陀如来大慈悲を深く知らされ、それを伝えてくだされた高僧方の
ご恩を感じずにおれない。

という永遠の幸せに生かされた喜びが綴られています。

 

では、教行信証は、聖人の喜びを綴るために書かれたのかというと
そうではありません。

教行信証の先ほどのお言葉の続きには、このように書かれてあります。

 これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。
 唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲りを恥じず。
 若しこの書を見聞せん者は、信順を因と為し、
 疑謗を縁と為し、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん。
                    (教行信証後序)

このお言葉は、
阿弥陀如来のご恩を思えば、世間の人の非難攻撃は、ものの数ではない。
この書を読む人には、信ずる人もあるだろう、謗る人もあるだろう。
それを因縁として、阿弥陀如来に救われ、
変わらない幸せになってもらいたい。
ということです。

このように、親鸞聖人は、阿弥陀如来の救いに遇われた
大きな喜びとともに、他の人にも本当の幸せになってもらいたいと
仏教の正しい教えを教行信証に書き残されたのです。

 


ハッピーエンドのために(幸せになる方法)

誰も知り得ない真実の教え

 

浄土真宗で知られる親鸞聖人は、
四方八方から非難攻撃を受け、波瀾万丈の人生を歩まれましたが、
その人生の目的、御心はどのようなものだったのでしょうか?

 

それは、親鸞聖人の主著「教行信証」に書かれています。
その冒頭には、このようにあります。

 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、
 西蕃・月氏聖典、東夏・日域の師釈に、
 遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。


西蕃(せいばん)というのは、インドのことで、
月氏(げっし)というのは、インドで栄えた国の名前です。
聖典というのは、教えのことです。

東夏(とうか)というのは、中国、
日域(じちいき)というのは、日本のことで、
師釈というのは、高僧方の教えということです。

ですから、このお言葉は、
愚かでお粗末な親鸞が、何の間違いか、
遇い難いインド、中国、日本の高僧方の教えに遇うことができた。
聞きがたいことを今聞くことができた。

お釈迦さまがどんなに素晴らしい教えを説かれていても
伝えてくだされる方がなければとてもしることはできなかった
という喜びを書かれているお言葉です。

続けてこのように書かれてあります。
 

 真宗の教・行・証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。
 ここを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり。(教行信証総序)

 
真宗というのは、真実の宗教ということで、仏教のことです。
教とは、教えのこと
行とは、教えの通りに実行すること
証とは、目的地のことです。仏教には、本当の幸せへの道が
説かれていますから、本当の幸せのことです。

敬信とは、敬って信ずるということで、賜るということです。

如来とは、大宇宙の本師本仏の阿弥陀如来のことです。

嘆ずるというのは、仏法讃嘆の嘆で、一人でも多くの人に
お伝えするということです。

 
ですから、このお言葉は、
お釈迦さまの教えの通りに実行し、阿弥陀如来誓願によって、
本当の幸せの身になることができた。
そして、阿弥陀如来の深いご恩を知らされた。
一人でも多くの人にお伝えできないものか。
ということです。

このように、親鸞聖人は、高僧方の教えに導かれて、

本当の幸せの身になられ、その慶び、報恩のお気持ちが原動力となって、

生涯、その教えを命懸けで伝えられたのです。

 


本当の生きる目的がわかるビデオ(人生は意味なく生きて死ぬだけ?)